駅前の青年
- by しばしん at 8月20日(月)14時28分
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夕方、会社から駅まで歩くと路上ライブの音が聞こえた。毎日毎日、誰かが歌を歌ってた。フォーク調だったり絶叫ハードロック系だったり色々だった。そこでたまに見かける青年がいた。アマチュア音楽に興味がない俺は彼の姿を見てルックスだけ記憶に残した。その日も彼が歌ってた。ミスチルの「クロスロード」を歌ってた。俺はミスチルの曲の中で1番好きなのが「クロスロード」だった。俺がゲイを自覚するきっかけになったテレビドラマの主題歌で、それまで漠然と持ってた違和感を一気に透明な空気に変えたドラマだった。だから「クロスロード」を聴くとセンチメンタルだったりノスタルジーな気分になった。俺は珍しく足を止めて少し離れて彼を見てた。次の曲を歌い始めて立ち去ろうと思った俺は彼の足元に置かれたA4サイズの印刷物を手に取って電車に乗った。彼の画像と簡単なプロフィールと簡単なメッセージとLINEのQRコードとフェイスブックのアドレスが白黒で印刷されてた。ちょっと昭和のアイドルっぽい爽やかな笑顔が俺は好きだった。名前はTAKE、24才だとわかった。タケなのかテイクなのか読み方は不明だし24才もデビューを目指すには遅いと思ったし俺的には若すぎた。ただ、兄貴とか父親目線で助けてあげたい、守ってあげたい風な気持も感じなくはなかった。
家の最寄り駅に着いて軽く飲みながら晩メシを済ませて帰宅した。それまで遠くから見てた青年の素性が少し見えて来てて微妙に、ホントに少しだけ心が騒ぐ夜だった。彼のフェイスブックを開いた。TAKEとは全く繋がらない名前に別名としてTAKEがつけ足してあった。恐らくアマチュアミュージシャンとして投稿してて「XXのライブに行った」とか「XXの新曲を聴いた」とか書いてあった。彼が歌う自作の動画もあった。そこそこコメントも書かれてたし友達の数は500人を超えてた。それが果たして多いのか少ないのかイマイチわかんないけど。「クロスロード」を歌う動画もあった。俺は何を思ったのか、その動画の感想としてメッセージを送った。「クロスロード」が俺にとって意味深い転機の曲だって事とその理由、駅前で実際に歌う姿を見て改めて動画も見て若い頃に戻った気分だって事を。全くの他人だからこそ俺が胸に秘めた思いを素直に書けたんだと思う。それを文字にする事で実際には何も変わんないけど何かを償えたような、何かを捨てられたような気分だった。本当の意味でのカミングアウトは俺にはできない事だったから。その日の内に俺のフェイスブックアカウントに彼からメッセージが届いた。グレーのスーツ着てた方ですよね?たまに見かけてましたけど今日は立ち止まってくれましたね、みたいな事が書いてあった。ちょっと嬉しかった。
何日か経った。会社帰りに彼が歌ってた。俺をチラチラ見てるのがわかった。また少し離れた場所で立ち止まった。俺が知らない曲を歌い終えて彼が話し始めた。「次の曲は今日の予定には入れてなかったんですけど、歌いたくなったんで歌います」とか言って「クロスロード」のイントロを弾き始めた。ほぼ俺を向いたままフルコーラスを歌った。俺は胸の前で小さく拍手をして軽く会釈をして立ち去った。帰宅すると彼からのメッセージが届いてた。路上ライブがない日でもメッセージが来た。毎日ではなかったけどメッセージの交換は地味に続いた。俺はミスチルが特に好きだった訳じゃないけど好きな曲が2曲あった。もう1曲は「花」だった。「クロスロード」で前を向いて歩き始めたけど色んな目に見えない壁にぶつかった時に「花」が救ってくれた。歌詞の中で同年代の友人が結婚して行って俺は?みたいな事が歌われてる曲で実際に結婚って選択肢がない自分に対しての劣等感とか嫌悪感がある時期だった。でも、自分は自分でいいじゃん、みたいに聞こえる「花」は俺にとって大きかった。彼とそんな話もした。路上ライブで「花」を歌った事はないけど練習してみる、とか返信が来た。嬉しかった。俺はフェイスブックで彼の路上ライブ告知を見ると必ず立ち寄った。彼は不定期に月1〜2回、あの場所で歌う他は路上ライブはやってなかった。その頻度が少ないのか普通なのかイマイチわかんなかったけど。
「明日は2曲とも歌うんで来てください」とメッセージが来た。先に「クロスロード」、続けて「花」を歌った。なんだろう、涙が出た。ちょっとごまかせない勢いの涙だった。彼を直視できなかった。50をすぎた中年が24才の歌に泣かされる現実、一瞬で過去を振り返って今の自分に至るまでの時間や道のり、その2曲の歌詞、彼の表情や歌声、どこがツボだったのか、きっと全てだった。格好悪いから急いで立ち去った。彼は次の曲を歌ってた。俺の心をここまで揺らす人と出会った事はなかった。それが怖かった。メッセージが届いても返信しなかった。路上ライブにも行かなくなった。遠くから彼の歌声に気がつくと遠回りして駅に向かった。それでも彼からのメッセージは届いた。「会いたいです」と言われた。「本気で好きになりそうで怖いから会えない」と返信した。メッセージのやり取りの中で俺の性的志向は知ってるはずだし年令差もあったし俺には会えなかった。
初恋に似た感覚だった。いや、絶対に叶わない片思いに近かったのかもしれない。彼を思ってマスターベーションに辿り着いた夜もあった。その時の絶頂感と空虚感には想像を超える温度差があった。同時にまだ誰かを思って勃起する自分が愛おしく思えた。そんな事が何度かあった。性欲とは完全に切り離された毎日だった。たまに、極々たまにゲイ向けのマッサージ店で処理してもらう他は性欲の破片も感じない毎日だった。それなのに俺は数年振りに自分の意思で射精した。狂ったように激しくマスターベーションに没頭する夜もあった。徐々に興奮度を上げて時間をかけて絶頂を目指す俺が俺には怖かった。「どうしても会いたいです」とメッセージが来た。俺は彼を知ってから現在に至るまでの心境を細かく書いて送った。返信が届いた。「花」の歌詞が最初から最後まで書いてあった。その後に「どんな自分も自分です、自分から逃げないでください」と。「誰かを思って勃起してオナニーするのは素敵な事です、そこに俺を選んでくれて嬉しいです」と。「俺はゲイではありませんがゲイを否定するつもりもありません」と。また涙が出た。完全に彼に心を持って行かれてた。
彼はミュージシャンを目指して色々と試したけど挫折して会社員になった。でも、自分の歌を誰かに届けたい衝動が消えなくて路上ライブを始めてた。だから俺が「花」で泣いた時に彼なりの達成感があった。だからこそ、急に音信が途絶えた俺が気になって仕方なかった。それを知るのは更に先の事だった。
その後も何度かメッセージが来た。路上ライブを終わらせる、と書いてあった。慌てて返信した。「俺のせいで止めるなら考え直してほしい」「俺が決めた事です、後悔はありません」「最後はいつ?」「もう歌いません」理由を知りたかったし理由によっては説得したかった。会う事にした。待ち合わせた場所に行くと彼は笑顔だった。勝手に1人で思い悩んでたのは何だったんだろう?彼は2人きりで話したいから誰もいない場所に行きたい、と言った。思いつかないで困ってたら「カラオケボックスかホテルか家がいいです」と言われた。俺んちまでタクシーで移動した。車内ではほとんど無言だった。
「あの時、俺の歌で泣いてくれた時、完結したんです」「誰かに届けばいいな、と思って歌って来て、届いたんで完全燃焼です」「あそこで歌うために仕事を犠牲にして時間と金も使って来ましたけど、もっと別の事に目を向ける時かな、と」
彼に言われて俺は安心した。それと同時に2人の距離感や関係性が一体どんな形なのか見えてなかった。初めて会って初めて会話を交わしてるのにずっと昔から知ってたみたいな、全くわかんなかった。それを話すと「考えなくてもいいんじゃないですか?決まった形があるより自由でいいと思います」と言われた。それから少しずつ気楽に会話ができた気がする。「あの・・・、俺を思ってオナニーするって、俺の何を思うんですか?俺にできる事もありますか?」「そんな事、答えるの・・・?」「変な意味じゃなくて、俺はエロ動画とか見て自分を投影する事はあっても特定の誰かを思ってやった事がないんで・・・」「君の裸を想像して、抱きしめる事を想像して、かな」「失礼ですけど、50才を過ぎてるのに素敵です、ホントに」「いやいや、そもそも、中年になって、そんな、ねえ」「純粋でいいじゃないですか、ちょっと、羨ましいです」「エッチな写真とか動画じゃなくて誰かとの場面を想像する方が気持いいと思うんだよ、俺は」「俺とのエッチ、ですか?」「本人に向かって言う事じゃなかったね」「俺でよければ脱ぎますよ、今」「それじゃ、想像にならないから」「でも、オナニーを軽く考えてましたけど、素敵な行為だと思うんですよ」「そうかもしれないね」「だから、何か俺にできれば・・・」「じゃあ、1度だけ、君を思って俺がやるから、最後まで見届けてほしい・・・、無理かな?」「それだけでいいんですか?」「それがいいんだよ、俺は」そんな気持になったのは初めてだった。彼はOKしてくれた。彼をソファーに座らせて俺はベッドの上でマスターベーションを静かに始めた。彼を見ながら想像の中で彼の服を脱がせてキスして抱き合って、抱き合ったまま唇だけじゃなくて頬や首筋にキスした。「相当エロいですよ」「そうかな?」「俺、勃起してます」「どうして?」「伝わるんですよ、なんか」「そうなの?」「想像じゃなくて、俺を抱きしめてくれますか?」「そっちの趣味、ないでしょ?」「ないですけど、優しく包まれたい気がしてます・・・」俺は躊躇したけど彼を抱く事はできないと思った。そう伝えた。「じゃあ、俺も抱きしめられる場面を想像して、オナニーしてもいいですか?」「それは君に任せる」彼は俺の隣に来た。ズルズルとジーンズと下着を同時に脱いだ。親子の年令差がある彼と並んでマスターベーションを続けた。もう、最高に気持よかった。見たから、見られたから気持よかったのかもしれないけど、俺は違うと思った。そのまま仰向けに寝て2人は天井に向かって目を閉じて静かに静かに続けた。彼が先に出した。俺も後を追って果てた。
彼と会ったのは1度だけだった。素敵な記憶になった。